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Tom Pudding - Wikipedia

Castleford (ˈkɑːsəlfəd) のカナ表記はカースルフォドとする方がよいですが、既存のカナ表記ではカッスルフォードとしているのでこれに合わせます。

トム・プディング (Tom Pudding)

トム・プディングとはエアー・カルダー水路の タブ・ボートに付けられた名前で、1863 年に導入され 1985 年まで使用された。 トム・プディングはサウス ヨークシャーのスタンリー・フェリー (Stanley Ferry) の近くの炭鉱地帯の露天掘り炭鉱から、 グール (Goole) の港まで石炭を移動ないしは輸送するのに極めて効率的な手段であり、鉄道と競争した。 名前の由来は形が 1 つながりの ブラック・プディング、あるいはひょっとして ヨークシャー・プディングに似ていたからであり、 (名前の) 残りの部分は元々の製造者の名前 (ファーストネーム) である。

カッスルフォード計量所のトム・プディング
  1. 背景
  2. 進展
  3. 操業
  4. 機械化
背景

かさばる製品を移動するためにボート編成を使用することは長い歴史がある。 1760 年代に、最後のブリッジウォーター公爵はウォーズリの航行可能な水平坑道 を開発した。これは一連の航行可能な地下のトンネルで、石炭作業に貢献した。 トンネルはブリッジウォーター運河につながり、 2 種類のサイズのボートが地下でも運河でも使用された。 M ボートは 53×6 フィート (16.2×1.8 m) で 10 トンの石炭を運んだ。 一方 T ボートは 50×4.5 フィート (15.2×1.4 m) で 7 トンを運んだ。 地下では曲がれなかったためボートは両端がとがっていた。 ボートは マンチェスターに向かう運河で輸送する時は、6 隻から 10 隻を 1 編成にした。 究極的な バーソロミュー (Bartholomew) のデザイン 【訳注:トム・プディングのこと】 に類似しているものに、 シュロップシャー・タブ・ボート運河網で使用されたタブ・ボートがある。 これは長方形で 20×6.3 フィート (6.1×1.9 m) であった。 ケットリー運河のタブ・ボートは 8 トンを運んだが、 シュロップシャー運河のタブ・ボートはそれほど深くなく 5 トンを運んだ。 シュルーズベリー運河の水門は 4 隻のタブ・ボートが納まるようにデザインされていた。 運河技師のトーマス・テルフォードは、水門には中間のゲートがあり、 1 隻, 3 隻あるいは 4 隻のタブ・ボートが使用できると述べているが、 中央のゲートがかって設置されたことに関しては証拠がない。

エアー・カルダー水路会社はノッティングリー (Knottingley) からグール (Goole) までの ブロード運河 【訳注:幅が広い規格の運河】 を開設した。 これは 1826 年にエア川 (River Aire) の困難な下流部を迂回するようにデザインされた。 1813 年以来、蒸気動力のボートで実験がされ、 1831 年には 蒸気動力の 外輪船タグボートを導入した。 運河会社の技師であったトーマス・ハモンド・バーソロミュー (Thomas Hamond Bartholomew) も蒸気動力の快速小型船 (fly boat) で実験をして、 この年のその後に亡くなった。 主任技師のポストは彼の子息であるウィリアム・ハモンド・バーソロミューに与えられ、 革新が継続した。 彼は 2 つの型式のタグ・ボートを導入した。 このいずれも外輪ではなくプロペラを使用し、 大きい方は 10 隻のキール (keel) を牽引でき、全部で 700 トンの貨物を輸送できた。 問題が水門で発生した。 ここではキールは 1 隻ずつ通す必要があったからである。 そこで 1869 年にバーソロミューは水門の延長を決定し、 1 編成のボートをもっと簡単に通すことができるようにしようとした。 ポリントン (Pollington) の水門が 1860 年の 10 月に 206 フィート (63 m) に延長され、 ウィットレイ (Whitley)、ブルフォルム (Bulholme)、フェリーブリッジ (Ferrybridge) そして カッスルフォード (Castelford) の水門がそれに続いた。 今や舞台はバーソロミューの次の重大な発明のためにお膳立てされた。

進展

1861 年の 5 月 20 日にバーソロミューはウィルソン (Wilson) 氏と会社の委員長であるウォード-アルダム (Warde-Aldam) 氏と会見し、 鉄のコンパートメント ―― 石炭で満載し、グール (の港) で貨物昇降機で中身を空けること―― の可能性を議論した。 バーソロミューは 30 トンを収納するコンパートメントが理想的であると考えたが、 ウォード-アルダムは 25 トンを勧めた。 計画は 6 隻のコンパートメントを、 船首と船尾のコンパートメントではさみ、普通のボートのように牽引使用することであった。 昇降機は水力機械で、彼らはすでにグールの水門操作に水力の導入を考えていた。 1861 年の 12 月 20 日の委員会の会合は £13,382 の支出を承認した。 これには 1 組あたり £1,100 の 3 組のボート編成と、昇降機の £2,500 及び水門と昇降機の 操作のための水圧装置が含まれていた。

グールのトム・プディング昇降機

バーソロミューが 1826 年 2 月 7 日に特許を手に入れた頃には 計画は少し進展しており、デザインには船尾のコンパートメントの代わりに、 蒸気動力の押し出し推進のタグ・ボートとチェーンが含まれていた。 チェーンはタブ・ボートの編成の全長にまたがり、これを操作するためにあった。 バーソロミューはボートが水中でどのように振る舞うかに関しては全くわからなかったので、 リーズ (Leeds) のハズウェル・クラーク社 (Hudswell and Clarke) にまかせた。 一方昇降機のデザインは「 ウイリアム・アームストロング会社」 (William Armstrong and Co. Ltd.) にまかせた。 元々のデザインではコンパートメント側面扉で石炭の荷降ろしをすることに なっていたが、これには上方におよそ 35 フィート (11 m) 持ち上げてから、石炭を 沿岸船に放出する必要があった。 ハズウェル・クラーク社は側面扉を備えたコンパートメントを製造したかも知れないし、 幾つかのデザインを考察したかもしれないが、 アームストロングの技術者は次のように提案した: より良い解決法はコンパートメントをケージ (かご、cage) に入れて、 これを持ちあげ、そのままひっくり返せば沿岸船の頂上部で石炭を放出できる。 こうすれば、コンパートメントを持ちあげるのは 25 フィート (7.6 m) ですみ、 昇降機の製造が安上がりとなる。 1863 年の 9 月には、エアー・カルダーに 6 個のコンパートメントと船尾の推進部が 配達されたが、船首の部分はまだなく、昇降機の建造は始まっていなかった。 ウォード-アルダムは危惧を表明した。 これは、そのようなボートの取り扱いがまだ知られていなかったからである。

ウォード-アルダムの危惧は根拠がなく、 年末までに完成したボートの試行が十分に成功したので、もっと多くのユニットを注文した。 推進部と船首の 1 組には 3 組の 6 個のコンパートメントが用意され、 1 組が荷積みしているときに、もう 1 組が荷揚げし、第 3 の組が輸送中となるようにした。 ボートの操船はチェーンによって制御され、 チェーンは組立船 (assembly) の両方の舷側を走り、 更に推進部の 2 つの蒸気ピストンに連結されていた。 コンパートメントを一列にするために、コンパートメントの各々には 船首から突き出る船首材があり、これが直前のコンパートメントの背後のくぼみに適合していた。 昇降機は結局 1864 年の 2 月 4 日に試行し、 完全試行はこの年の 8 月に始まった。 昇降機の操作は (馬力) 不足で、 動力源であった 2 つの小さな水圧シリンダーをもっと大きなもので置き換えた。 この結果、昇降機には 2 つの大きなシリンダーが装備され、 水圧は 1 平方インチ当たり 750 ポンド (52 バール) から 1 平方インチ当たり 825 ポンド (56.9 バール) に増え、 終には 1 平方インチ当たり 900 ポンド (62 バール) に増えた。 試行期間中に 1,198 トンの石炭を処理し、1865 年の初頭にはシステムが操業可能となった。

訳注
1 平方インチ当たり S ポンド = S pound per square inch (psi) = S 0.06895 bar
操業

デザインでは 1 編成あたり 6 隻のコンパートメントであったが、 7 隻でも水門を通過できることがわかり、編成が長くなった。 コンパートメントは最初の 19 隻の建造後は深くされ、 25 トンではなく 30 トンを運べるようになった。 新しいデザインはもっと安定していることが判明し、 1 編成は今や 210 トンの石炭を運ぶことができた。 スタンリー・フェリーの炭鉱からグールまで ―― およそ 30 マイル (48 km) の距離 ―― を移動するのに 8 時間から 12 時間かかった。 コンパートメントの荷下ろしをするのに 3 時間かかるが、 荷下ろしできるまで、しばしば 2, 3 日遅延し、 鉱山では荷積みするまで 13 日までの遅延があった。 船の操作には 4 人の乗組員が必要で、 船長, 航海士 (mate), 技術者そして火夫から構成されていた。

バーソロミューの組み立て式ボートの図式、 1862 年の特許に基づいた図と 1866 年の改良された操船の仕組み 【訳注;上の図は上から見たもの、下の図は横から見たもの】

経験により、7 隻のコンパートメントは制御できる最大の長さであることが判明した。 10 隻や 11 隻のコンパートメントを (後方から) 押すことは可能ではあったが、 荷が空の時には、 とりわけ風が吹いている時には操船が困難となった。 1870 年代には、コンパートメントの数は 1 編成につき 7 隻で、これが 4 組用意された。 しかし利用可能となる数が増えるにつれ、固定した編成から、 コンパートメントを個々に扱う考えに変わり、1 編成は利用可能なもので構成するようになった。 タグ・ボートには船首の近くに水タンクがあり、 これを満水にしたり空にしたりした。これは、押し出し推進の角度を変更するためで、 コンパートメントの積み荷が満載であるか空であるかに依存していた。 バーソロミューが 1883 年に「運河に関しての精選委員会」(Select Committee On Canals) に証拠を提示した時に示したことは、 1 編成が 11 隻のコンパートメントを越えることがしばしばあり、 この設定ではタブ・ボートはコンパートメントを牽引した。 この時、多くの編成は 11 から 12 隻のコンパートメントから構成されたが、 22 隻の編成も頻繁にあり、30 隻まで試行した。 バネのバッファもコンパートメントの間に追加され、運河のカーブを切りぬけた時に ボートを直線状に戻す助けにした。 水路会社は水門を更に 250 フィート (76 m) 延長し、 長い編成を分割せずに通すことを望んだ。 しかし、このような計画が実施されたことに関しては証拠がなく、 1904 年では、通常の編成はまだ 10 隻ないしは 11 隻のコンパートメントから構成されていた。

システムが操業を始めて 6 年経過した時、 バーソロミューはディレクター達に近づき、 このようなシステムがそれ以前には試行されたことがないのにも かかわらず、完全に成功し、失敗して資金を失ったわけでないことを指摘した。 すべての変更は実際の経験結果として実施された。 ディレクター達は彼の有能性を認め、彼に £1,000 のボーナスと彼が 製造したモデルに £220 を支給した、 この結果、バーソロミューは彼の特許を会社が自由に使えるようにした。 バーソロミューは 1875 年以来、運河会社の主任技師であると同時に ゼネラル・マネージャーに昇進した。

第一次世界大戦後、 グールとカッスルフォードの間の水門の長さを 450 フィート (140 m) に延長して、 19 隻のコンパートメント, 先頭船, 推進船から構成される編成を 分割せずに通せるようになった。 「Jebus」と呼ばれる先頭船は、なお付き出た船首として使用され、これにより推進船のプロペラからの水流が下流に向いて、 編成の下を通り、これで水流が最初のコンパートメントの垂直の壁にぶつからないようになった。 カッスルフォードより上流では、このような編成を分割する必要があった。 カッスルフォードよりも下流ではもっと長い編成も実験され、 38 隻ものコンパートメントもつなぎあわせた。

機械化

システムの成功への鍵は積み替えの機械化であった。 グールのドックでは、 大きな昇降機がプディングを持ちあげて、船に直接放出でき、 石炭を世界中の港に輸出した。 5 基の昇降機の 1 基が保存されている。

炭鉱では、コンパートメントは貨車に搭載され、炭鉱の中心部に運ばれ、 石炭が立坑坑口 (pit head) から石炭が直接積み込まれた。 1891 年にはスタンリー・フェリーでインクラインが設置され、 炭鉱と運河が直接接続された。 35 トンの石炭を運ぶ 15 フィート (4.6 m) の幅のコンパートメントは 標準ゲージの鉄道貨車と平衡を取った。 この操作は不安定ではあったが、事故の記録がない。 システムの成功により 1000 隻以上のトム・プディングが使用され、 年間で 1,500,000 ロングトン (1,700,000 ショート・トン, 1,500,000 トン) の石炭が輸送され、 ウォード-アルダムの元々の評価である年間 45,000 トンとは良好な比較となる。 随分と良いものである。

類似のシステムはノッティングリーで ケリングリー炭鉱 (Kellingley Colliery) の開設時に開発された。 ハーグリーブ (Hargreave) のはしけのシステムが石炭をフェリーブリッジ (Ferrybridge) の 発電所に輸送するのに使用された。 設定は 3 隻の石炭パン (pan = なべ、ハシケのこと) から構成され、 各々 56×9.25 フィート (17.07×2.82 m)、深さ 9.5 フィート (2.9 m) で、、 170 ロングトン (190 ショート・トン, 170 トン) の石炭を運ぶことができた。 しかしながら、パン (なべ) は相互に固定的に連結され、 バーソロミューの柔軟な配置とは違っていた。